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気まぐれで更新する私的凡庸日記です。


by princessaroma
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かねてより《 密かに 》要望があったようなので、
「世紀末」の表現に貢献した作曲家、グスタフ・マーラーを。
私が持っている数枚ほどのCD、お気に入りの演奏などをナンバリング順に。
ちなみに個人的に好きな順で言うと、1.3.9.2.8.6.5.7.4です。
生まれて初めてのマーラー体験は、ワルター&ニューヨークの「巨人」。

交響曲1番ニ長調「巨人」
楽章ごとのキャラクターが明確で、入門には一番適している曲。私も大好きです。
本当はワルター&ニューヨークが一番良かったのですが、モノラル録音の為、却下。
ステレオのワルター&コロンビアもオケが貧弱な為、満足までには至らず。
テンシュテット&シカゴのライブ盤はかなり格好のいい演奏でしたが、4楽章の途中から
金管があまりの白熱のためか、音程ずり上がりすぎ。その為、残念でしたが次点へ。
まだ未聴ですが、70年代の小澤&ボストン盤もかなり評判がいいので聴いてみたい。
クーベリックのライブ盤も良さそう。
終末的諦観はとうに過ぎましたが。_c0155819_1137558.jpg
アンチェル&チェコ盤は粘っこくてコクのある演奏。


終末的諦観はとうに過ぎましたが。_c0155819_1139123.jpgフィリップスから出たベルリンとの旧録音
ハイテンクらしい均整のとれた演奏。中庸の心地よさ。
回数を重ねるならこちらに軍配かな。


交響曲2番ハ短調「復活」終末的諦観はとうに過ぎましたが。_c0155819_11444580.jpg
ファーストインパクトが完璧に美化された思い出に
なっていて、たぶんもう、これしか聴けない。
バーンスタイン&ニューヨーク・フィルハーモニック盤。


交響曲3番ニ短調
終末的諦観はとうに過ぎましたが。_c0155819_1153199.jpgこの曲をはじめに聞いたのはショルティ指揮、ロンドン交響楽団。その演奏は2番目に好き。一番好きなのは、
いまのところ、ハイティンク&シカゴ盤(画像は割愛)。
でもこのハインツ・レーグナー盤、終楽章がしみじみとしてて良い感じなのです。
ちなみに私が買ったのは6番が入ってないverでした。
ベタですが、グラモフォンから出ているバーンスタイン盤も良かったと思います。


終末的諦観はとうに過ぎましたが。_c0155819_1217279.jpg


・交響曲4番ト長調
あまり聴いた事の無い曲。正直自分には退屈。最初に聴いたのは高校の頃、
ショルティ&シカゴ+キリ・テ・カナワ盤を。音楽を聴いてて本気で眠くなった曲のうちの一つ。
そもそもマーラーすら興味が失せてきた昨今。
シャイー&コンセルトヘボウを持ってますが未開封のまま。マゼールも評判がよいとか。
でも今聞いたら、この曲の印象も変わるかn・・・zz・・・z


交響曲5番嬰ハ短調
マーラー曰く「駄作」扱いの5番。でも映画音楽で使われたりしているし、
1楽章もかっこいい。マーラーの演奏録音をあまり残さなかったカラヤンの解釈が
「美しさの追求」と言う点では群を抜いている気がします。でも私は
レヴァイン&フィラデルフィア盤をプッシュします。
終末的諦観はとうに過ぎましたが。_c0155819_1215266.jpg
未聴ですがシノーポリ盤、インバル盤も評判が
いいので興味あり。


交響曲6番イ短調「悲劇的」
終末的諦観はとうに過ぎましたが。_c0155819_13221169.jpg
これは最初に聴いた演奏が、そのまま一番好きな演奏となりました。ショルティ&シカゴ盤。
他の人の解釈は濃厚過ぎて・・・映画のサウンドトラックのようにサクッと終わってくれるショルティ盤がもっとも
私的には疲れません。廃盤になる前の日本盤ジャケが
カコイイ。クーベリック盤にも、ちと興味あり。


交響曲7番ホ短調「夜の歌」
あまり聴くことはないですが、聴けば「いいな」と思える曲。
終末的諦観はとうに過ぎましたが。_c0155819_12263254.jpg
ラトル盤が冗長にならずまとめられていて良かった。


交響曲8番変ホ長調「千人の交響曲」終末的諦観はとうに過ぎましたが。_c0155819_1230582.jpg
インバルもコンパクトにまとまってて良かった。シャイー
70年代の小澤も評判がいい。でも自分には、「本当に
1000人召集してしまった」と言われているダイナミックな
ショルティ盤が心地よい。


交響曲9番ニ長調 終末的諦観はとうに過ぎましたが。_c0155819_12334863.jpg
ノイマンの最終録音やシャイー、ジュリーニ&シカゴ盤、
バーンスタイン&コンセルトヘボウ盤ベルリン盤も◎。
バルビローリ&ベルリン盤も良かった。
でも私の中では、暖かさが伝わってくるカラヤン盤が
ベスト。迷いなく太く押し当てた一筆書きのワビサビに
あるような、颯爽とした「侘びしさ」が感じられる。


※全集としては、何が無難かと問われたなら、
平均的情緒安定型なら「ショルティ&シカゴ」。自己陶酔爆発型なら「バーンスタイン」を
薦めます。バーンスタイン全集は1BOXSETは高め。3つに分けられた / verが / 割安ですね。

でも、個人的に物欲がそそられるのは、「クーベリック盤」。
コストパフォーマンス的にも大穴の気配。


終末的諦観はとうに過ぎましたが。_c0155819_12485726.jpg

それでは、良い休日を。


# by princessaroma | 2009-02-28 13:30 | レビュー

心の多次元

わずかですが、自分の中で垣間見えつつある
天使、悪魔などの姿、名前等の人間への顕現現象の神秘についての
個人的見解による微々たる言及。

正直、私は物知りでは無い。普通の事もまた精神世界のことも。

だが、不思議な事に数ヶ月に数回の頻度で、聞き覚えの無い名前が
聞こえる事がある。注:特に私は精神科にも通っていませんし、
このような言動もネット上であればこそで、普段の生活における対面上の言葉と
分別をもって使用しているつもりです。心霊体験や怪談等が好きな人には
チョロッと振ったりもしますが^^;

ネットで調べてみると、悪霊とされている名前であったり、
天使であるとされている名前であったり、しかもその双方の呼び名が
ひとつの同じ存在を現している妙。はて、之は一体なんであろうか、と。

そしてあるひとつの答えが頭をよぎる。
これは自分の心の性質では無いのだろうか。まるで血液型や星座のように。

初めに聞こえてきたのは半年ほど前あたりだろうか。
「アリアエル。」・・・また数秒ほどして、「アリアエルが居る。」と。

それから数日たって同じように「アリアエル・・・」。

ネットで調べてみると、ライオンの顔を持つ悪霊とのこと。
1年半以上前、旧ブログを書いていた頃のある日の深夜、突然
頭がキーンとしてきて「ラー、獣の王よ。」と言う声が頭の中で響いていた事が
そういえばあったな、と思い出しつつも、そのときは調べて出てきた情報が
あまり気持ちのいいものでは無かったので、スルーを決め込んだ。

そして今日から数日前のこと。その時の私の心は澄み切って穏やかでした。
仕事帰りの電車の中で、昔、一度だけ肉眼で見ることが出来た霊的存在、
私の身体が痺れるほど愛情が伝わってきた「霊的存在」の名前を
そのときは伺っていなかった事をふと、残念に思ったとき、

「私はまだそばに居ますよ。アリエルです。」
「アリエル・・・アリエルですよ。」

その瞬間、以前きこえてきた「アリアエル」の名前が直結した。
もしやと思い、携帯で「アリエル」の方を調べてみると、「ライオンの顔を持つ天使。」

「やっぱり・・・・表裏一体?」
そして「自然や動物を見守っている天使」とのこと。
そこでひとつの閃きがまた、浮かぶ。
「もしかしたら、この二つの名前が現すものは
私自身の性質におけるシンボル的な象徴では無いのか。」と。

もっと解りやすく言えば「怒っているときの私と笑顔でいる穏やかな私。」

私は顕在意識における姿として、「人間」である事は現状での一つの事実。
そして属性、または私が人間としての生涯を抜けた後に選択可能な「振れ」の
一つの可能性ではないのか、とも。

もっと、突き詰めて言えば、時間軸を無くした視点で、

私の顕在意識が普段認識している、「私」がまず居るのと同時に、
人間の私が見た「対」となる多次元世界の意識の断片を
私の不完全さによる感情の「振れ」によって、私の側面として用意されていた声や
イメージが人間である私の顕在意識で認識するのでは無いか、ということ。


人間が解りやすいように、時間軸を直線と見るなら、
私が自分を善人だ、としての認識を自分に思い込ませたまま、肉体的死を迎えた時に
心の世界で一時的に用意されている存在形態なのかもしれない。
別の表現であれば、どちらかの振れにせよ、形から
抜け出せていない故、まだ完全な卒業とはなっていない状態。

そしてそれは、現在も同時に存在している、私の心の側面として。
あくまでも推測でしかありませんが、今日の私の中で確信めいた感触を
得ている精神世界の「途中の場面」でした。

そういえば、名著「聖なる科学ー真理の科学的解説」にも、
最終的には天使的存在への認識が無くなって、幻想から解かれる云々、
書かれていたなぁ、と思い出しているところ。長文失礼しました。

補足:私一人の心と思われていたものは、上記を踏まえると全体の心の容器のように
感じられます。私という個別化した顕在意識が心の中で「対」を捉え、あたかも
ひとつの対象のように見るとすれば、それはそのまま丸ごと、普段の生活における
「自分」 対 「誰か」 の反応にも当てはまる、と言えそうです。


誰かを否定することは、他者の位置に立たせている自身の影。
転じて光が対比としてそこで生まれる。影をなくしたときに
光と云う言葉もなくなり、側面に立つことなく「空」に落ち着く。
# by princessaroma | 2009-02-27 21:27 | 枕元の草子

粘土

総括的に。そう思わされてきた数々の壁を。

私は「空」を喩えるのに、もう少し解りやすく出来ないか、と
言葉を探していく過程で、いつも思い浮かべる言葉がある。

粘土。

粘土はそこにある以上、粘土であり続けるのだから、
「空」と同じにするのは、少し微妙かもしれないが、
それ以外の性格は似通っている気がする。

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例えば、子供が遊べるようなプレイルームがある。
現代的な玩具は全くなく、ただ、部屋のど真ん中には大きな粘土が
どっしりと構えている。

それで勝手に「おもちゃを作れ」と云うことらしい。
いや、まてよ。「おもちゃを作れ」と云われたと思い込んでるのは、
その粘土を見つけてしまった側に過ぎない。

でも、一人遊びが好きな子供であれば、これほど自由な事は無い。
その粘土で戦車を作っても、お酒のビンを象っても、まだ見た事の無い人を想像しても、
どんなものを作ったとしても、まず怒られたりはしないだろうから。

暫くしてそのプレイルームにはもう一人、子供が遊びに来たようだった。
そして初めにそこで遊んでいた子供が作った自動車を見るなり、

「俺の方がかっこいいの作れるもん。」

あっ、と言う間もなく、その子が作った自動車を捻り潰してしまった。
初めに粘土を見つけていた子供は一瞬、目が淀んだが、
また次の瞬間、思い直すように

「まだ何も作ってなかった頃に戻っただけだから、気にしないよ。」と
笑って見せ、後から来た子供の自動車作りを穏やかに眺めていた。

ちなみにだが、特に何の意図もなく適当に粘土をいじった後、
その子達に見せたところ、こちらが何も言っていないのに、
彼らの中で常日頃、見ることのある「何かしら」を気ままにかつ反射的に
思い浮かべていたのが印象的だった。

ほんとうに「特に何を作ったつもりは無い」のだが。
# by princessaroma | 2009-02-25 00:08 |

葡萄

たぶんこの解釈でいいのだと思う。

葡萄になる一粒それぞれはその視点の先には自らは見えず、
自分が何者であるかも、またどこから生かされてるのかも気付けない。

だが、ひとたび視点を自分から外せば、
同じ実を結ぼうとしている同朋が沢山いる事を知る。

そして、房を成すより太きところへと心を辿れば、生命を同じくする一つの
源流があることも。

私達はその味を確かめられる。
肉体を脱皮して、食べられない自我を吐き出されたあとに残る実は
どれほどあるかを。
# by princessaroma | 2009-02-19 21:44 |

夜明けのご連絡

やっと今日戻った。
センターに。十代の頃に感じた赤ちゃんに戻ったような、
全ての映像が新鮮な感覚。

コレなんです。コレ。持続させたい感覚。

何も切羽詰まってこない。
煙草も甘味も取り入れる事なくてもその味を思い出して
リラックスする事が出来るこの感覚。

直接的な五感からではなく、記憶の情緒からの味わい。

外に映る全てが自分の内にある感覚。今ココ。

もはや思考からでもなく理屈からでもなく
だが判断できる。

全ての目に映るものが懐かしく愉快で愛おしい。

絶望はもう感じられない。
長いあいだ、希望と言われカモフラージュされた
自分だけの欲をもう譲ったから。

希望と言われ実は重かった自分の欲を背負わなくなったから。
# by princessaroma | 2009-02-18 15:34 |